らもの墓石は?

sokotsunagaya2005-03-26

南千住図書館へ。
こちら方面へ足を伸ばすのは初めて。大通りを通っても面白みがないが、初めての土地なので、迷ってもいけない。線路が見える範囲で小路を自転車で行く。
中華料理屋や韓国料理店が多い。路地で立ち話をしていたおばあさんからは、韓国語が聞こえてきた。
小路を行くと、生きた歴史にぶつかる。


本日のお目当て


平成16年度荒川ふるさと文化企画展
あらかわと寄席
会期 2005年 2月5日(土)〜3月27日(日)
http://www.city.arakawa.tokyo.jp/a004/html/d00600170_0701.html

今日、「寄席」という言葉には、「懐かしい」または「伝統的」といった響きがあります。
ところが実際は、大正から昭和初期ごろ、区内には10軒以上の寄席がありました。南千住の栗友亭、尾久の平和会館、三河島(現荒川)のまつみ亭、日暮里の大坂亭など、各町内にあった寄席は、とても身近な娯楽の場所だったのです。
しかし、昭和30年代も半ばになると、東京のほとんどの寄席が姿を消していきます。やがて、寄席は記憶の中へと潜り込み、あちこちで開かれる落語会のような形で再び姿を現していきます。
身近な場所から懐かしい場所へ。娯楽の場所から趣味の場所へ。
こうした寄席を巡る人々の思いの移り変わりの背景には、どのような社会の変化があったのでしょう。そもそも、人々にとって寄席とはどのような時間を過ごす場所だったのでしょうか。
この展示では、あらかわの暮らしと寄席を取り巻く世界を、江戸、明治、大正、昭和、戦後と時代を追って案内します。例えば、東京漫才発祥の地とも呼ばれた栗友亭に関する資料のほか、寄席に関するコレクションとしては秀逸の「橘右近コレクション」など、多数紹介します。
昭和30年1月1日にオープンした栗友亭は、東京漫才の定席で、多数の若手漫才師が巣立っていきました。


入場料100円でかなり見ごたえのある展示。
受付のおじさんが「今、解説員が案内してますから、よかったらどうぞ」
中に入ると、既に解説付き見学会が始まっていたが、輪の中に加わり、説明を聞きながら展示物を見てまわる。私以外は、おばさん4人とおじさん1人という構成。解説員さんは若いお兄さんだった。

栗友亭の大入額や当時の寄席を描いた錦絵。寄席を紹介した、外国人向けの日本土産・チリメン本など興味深い。チリメン本にいたっては、フランス語版を英語版に訳し、第6版まで確認されているというから驚き。
写真は栗友亭、現在の姿。今は寄席ではありません。

佃屋白魚の墓

「ごぜん上等すてヽこおどり」
1880年、歌川周重筆

明治の珍芸四天王(釜堀り・立川談志、ラッパ吹き・橘屋円太郎、ステテコ踊り・三遊亭円遊、ヘラヘラ節・三遊亭萬橘)と生人形・初代松柳亭鶴枝、朝三小僧・三遊亭朝三、佃屋白魚が描かれている。


白魚は佃島の名産と言われるが、隅田川やその上流の荒川、特に尾久が有名で、実は漁業権の関係で佃島の人は獲れなかったそうな。佃屋白魚はこの辺りの出身で事情を知っていたので芸名にしたらしい、と言う事だ(解説員によるとはっきりとは分かっていないそう)

で、この白魚、大変な大酒飲みで、横浜の万竹亭出演中、泥酔して梯子段踏み外し、転落死したそうな。
もしかして、最近お亡くなりになったあの方は、白魚の生れ変りだったのか??
白魚の墓は荒川3丁目の法界寺にあるそうだが、その墓石がなんともステキ!
酒樽の墓石の下に眠りたいとの遺言通り、1893年、落語家同志により四斗樽の墓石が造られた。

正面には銘柄のように「白魚」、左下には酒蔵元銘のように「伊藤」と刻んである。ここまでくれば、墓石周辺に置かれるものにもこだわりを見せたいもの。そこはさすがに大酒飲みの師匠の側で修行に励んだ弟子達、心得たもので徳利型の花立と盃型の線香立を寄進した。

何とも粋な話である。

本日のめし!

おでんよしだ
http://www.tv-tokyo.co.jp/adomachi/040306/30.html
http://www.nippori.net/menu07.htm

店主のおばあちゃんは、戦前からおでん屋台をひいているそうで、アド街によると87歳との事だがとてもお若い。
戦中の話や戦後の話を伺う。
敗戦直後は、おでんのリヤカーに子供を乗せて育てながらおでんを売っていたそうだが、ちょっと手を離すとリヤカーが倒れて子供が地面に落ちてしまうので大変だったそうな。
おでんは関東風。良いだしが出ており、やさしいのにしっかりした味。
汁もたっぷりかけてくれるので、最後まで飲み干してしまった。美味しい。
オリンピック三ノ輪店隣の公園横で毎日営業。こんな美味しいおやつが食べられる三ノ輪の子は幸せものだ。