いつの時代も

本日は有給休暇♪

で、連チャンでフィルムセンター
http://www.momat.go.jp/FC/NFC_Calendar/2005-03/kaisetsu.html

原一男[1]

原一男の衝撃のデビュー作『さようならCP』は、社会の秩序だった風景を乱そうと、脳性マヒ(CP)の患者を「車椅子を捨てて、とにかく町へ出よう」
と説得して実現した一本。撮る側の人間が、撮られる側の生に踏み込み、盛んに挑発することで被写体に変化を起こさせてゆく原の手法は、本人に
よって「アクション・ドキュメンタリー」と名づけられた。上映当初には非難も浴びせられたが、被写体となった人々自らが、障害者を「温かく見守る」
福祉映画こそ健常者が上から見下ろす視線の産物だと主張、監督を弁護した。

『さようならCP』(83分・16mm・白黒、1972年)


被写体の一人が、新宿の歩行者天国で、詩の朗読を始めようとする。突然暗転し、音声のみに。
警察「責任者誰?」
被写体と撮影者が説明しようとする…遮るように、
警察「分かった。分かった
   皆が困るからね。見せ物になっちゃいけない」


誰が困るの?
通行の妨げになると言うのなら、他の見せ物も同じですよね。

路上で詩を朗読するのは見せ物ではないのか?
彼は積極的に見せ物を披露しようってんですよ。「見せ物になっ」ていいんですよ。それとも何ですか?彼の見せ物は他の見せ物と違うんですかい?
彼は、アーティストとして、群集の前にいるのに。
今も昔も、「自分たち」と少しでも異質なものは排除し、隠す姿勢は変わらず。群集もなぜ、何も言わん。殆どの人が怖いもの見たさ根性でしょうから。
隠すから、障害者は「異質な存在」になると言う事がわからないのかね。